体験について

 

 

先日、友達のライブを大学の講堂で観た。

 あまりにもライブ感があり過ぎて、ドキドキした。

音源じゃなくて、生でギターの弦が擦れる音とか、ベースの弦がボォーンって振動する音、ドラムスティックが革に当たる音とかは、フィルターを通さず心に響く。
観る前は時間に渋ってたけど、観といた方が良いなと思う感覚は正しかった。
改めて、ライブって「体験」だと感じた。いつも音源だけ聴いてるから麻痺してたけれど、久しぶりのライブにそんな感覚が蘇って来た。


友達のライブを観て、去年の夏のことを思い出した。
大好きなアメリカのバンド、weezerを観に千葉へ行った時のことだ。
真夏の野外、物凄い熱気が漂う会場。
メンバー登場を今か今かと待ち望んでいる僕の左側には半身半裸、おまけにタトゥーまみれのアメリカ男児達、目の前には日本の社会人らしい男女で軽くウェイウェイしてる人達がいた。チャラめの男の方が軽く女の子を口説いてる気がしたけれど、そんなことはどうでも良かった。
ライブは久しぶりだったけど、やっぱり好きだと思った。

メンバー登場の前の僅かな緊張感が1番心弾む。
そして、メンバーが登場するや否や、割れんばかりの歓声が巻き起こる。

僕はメンバーが登場して来て、今から目の前で演奏してくれるという事実だけで既に感動をしていた。

高校時代、毎日僕の耳元で爆音で鳴り響いていた音が、今から目の前で鳴らされる。
演奏が始まり、ギター音が鳴ると、感動はもう1段ギアを上げ、感激の域に達する。一方、左側のアメリカ男児達は始まるや否や、半裸タトゥー姿で訳の分からない奇声をあげていた。

これが自由の国のリアクションなんやと、肌で感じた。

 

照明を眩しく感じる感覚、上昇する熱気、したたる汗、立ちっぱなしで次第に痛くなってくる足。自分に向けて演奏してくれてるのではという錯覚。全てひっくるめて「体験」だ。

 

ただ僕はある一点に憤りを感じてしまった。
目の前で観ていた社会人集団に。
iPhoneの動画で終始冷静にライブを撮りながら観ていた。そして、すかさずSNSに投稿をしていた。

その光景に、何故か興醒めてしまった。 

  しかし、現実はというと、お構いなしにウェイウェイ動画を撮り続ける社会人、その後ろでは思っていることが届かないまま悶々&撮ってる手が邪魔で1人でブチ切れてるけど演奏に感動して鼻水まみれの青年、そんな青年を横目に、曲が終わっても病的に発狂し続ける半裸米人という構図。

お前らに関してはただ発狂しに来たかっただけだろと、もし英語が話せれたら流暢に問いただしたかった。

 

でも、社会人の人達が、悪いわけではないと思う。現代の感覚としては当然だ。かく言う自分も割と携帯で撮ってしまうタイプの人間だから、気持ちもわかる。

 

でも、本当に好きな音が鳴ってる時に、自分は携帯に手がいかない。ライブだけは極力動画を撮らないようにしている。
何故なら「体験」だから。「体験」はデータに残さない。

いくら手軽に発信できる時代だからといって、その場で実際に音を浴び、詩を浴び、色鮮やかな照明に魅せられ、耳をつんざくような歓声と一体になるという身体的な体験と、訳もわからず感動して涙が出るという心の体験は、感覚として心身に残る。

その体験にお金を払っているといっても過言ではない。

 

こんだけ言っておいて、ライブ中にルンルン動画を撮ってる僕を目にしたら、それはホラーです。

 

それにしても、なんであんなにキレてたのだろう、暑さかな?と、書いてて考えてみたけれど、単純に手がファッキン邪魔だったのと、隣の狂米人達がだんだん鬱陶しくなったからだと特定できた。怒りの原因は、後々冷静になった時、特定できる。

 

思い入れの大きさとか、好きの度合いとかで決まっちゃう点もあるかもしれないけれど、なんとなく友達のライブを観て、そんなことをふと思い出した。

照明の関係か、3人は眩しかった。
ボーカルのMCを除いて。

 

ちなみに、ライブが終わった後の感覚も好きだ。

あぁ、終わっちゃったって感じるけど、フワフワした多幸感は、しばらく心に残るから。

データとして保存できないから、追体験できないけど。

 

 

 

*これだけ言っといて、じゃあライブ映像は?とか言われたら閉口するしかないです。それはまた別の話。

 

 

 

 

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