犬について
最近めっきり街中で大型犬を見なくなった。
広場や公園で見かける犬といえば小さくてオシャレな小型犬が多い印象だ。
小学生の頃まで、家でゴールデン・レトリバーという犬種の大型犬を飼っていた。名前はロッキー。
姉が犬欲しさに駄々をこねたため迎え入れたらしいが、当時赤ん坊だった自分は迎え入れた当初の記憶が何も残ってない。
しかし、写真を見せて貰ったところ、ロッキーとまだ赤ん坊の自分を一緒の檻に入れて家族みんなで面白がっているという光景がフィルム写真にまざまざと残っており、自分の家族の倫理観を本気で疑ったことがある。
案の定自分は泣いていたが、ロッキーはどうした?と言わんばかりのケロっとした表情でカメラ目線をしていた。
僕が小学校に入学する頃には、ロッキーの体は僕の成長速度とは比にならないくらい立派に成長した。
ゴールデン・レトリバーは小さい頃は両手で抱えれるほどのサイズで愛らしく舌をペロペロさせているのに、大きくなれば打って変わって走るたびに体毛をなびかせる勇ましい犬になる。
大きくなると家の中では無理があるため、この頃から外の小屋で飼うようになった。
正直、自分はロッキーが苦手だった。理由はシンプルに怖かったのと、言うことを聞かなかったからだ。
自分がいざ手綱を引いて散歩し始めても、すぐにロッキーが走り出して引きづられるというアニメみたいな展開を現実世界で本当にやっていた。かと思えば、大工をしていた厳格な祖父が手綱を引けば打って変わってちょこんとお座り、お手のコンビ&長い舌を垂らしながらいつもより心なしかお利口さん歩きをするロッキーに子供ながら「世渡り上手め」と思っていた。
犬の言葉はわからないが、こっちに向かってワン!と鳴く度、「お前はちょろい!」と言われている気がした。
賢い犬種だから、こいつはちょろい、この人は怖いからいい子にしようという視点があったのだろう。
公園で遊んでいてもフリスビーより女性のお尻を追うような恥じらいもない犬だったから、アメリカのホームビデオのような世界観とはほど遠かった。
そんな自分に課せられていたのが夜の餌やりだった。
餌やりだから、主導権はこちらにある。餌のためならやつはお手でもお座りでもなんでもした。
昼間の元気な姿には正直うんざりするのに、餌を待てしている姿と、食べている姿だけはなんだか無邪気で可愛く感じた。
食べ終わり、満足げに舌なめずりをして心なしか笑ったような顔でこちらを見つめてくる。
その笑顔で散歩中引きずれられるなら、なんだか許せる気がしたのに。犬の気持ち良さそうな笑顔は、なぜこうも多幸感に満ちているのかだろうかと今でもふと思う。
毎日の餌やりは僕の日課になった。学校で嫌なことがあったり、担任に猛烈に怒られた日も変わらずロッキーに餌をやった。
ちゃんとお手、お座り、待てをさせて。
毎日接するからか、愛着が湧いた。ロッキーもロッキーで、毎日同じように僕が餌を与えるからか、次第に心を許してくれるのがなんとなくだが分かった。
僕が容器いっぱいに盛った餌をロッキーが食べ尽くすまで、しゃがんで見守る時間が何だか楽しかった。
数年経ったある日の朝、ロッキーが血を吐いて横たわっていたのを家族が発見した。重い心臓病と、ストレスだった。
外の小屋の隣が居酒屋の駐車場に近かったため、夜中に酔っ払いが絡んだりしてきたのがどうやらストレスの原因だった。そういえば夜中によく吠えていた。
父が人前で泣いているのを生まれて初めて見た。よっぽど思い入れが大きかったんだと子供ながら感じた。
自分はというと、当初は頭の中が真っ白になって涙も出なかったが、事実を受け入れてからは嗚咽が止まらなかった。
横たわる亡骸を見て、そのからだの大きさを改めて感じた。
あんなに苦手だったのに、いつのまにか大好きになっていた。
この前、ラブラドールとゴールデンの犬種を広場で見かけた。
フサフサな毛を揺らしながらフリスビーを懸命に追う姿は、やっぱり小型犬と迫力が違う。キャッチこそできていなかったが、どっかの誰かみたいにそれすらも放棄して女性のお尻を追うような犬よりか、いくぶんかましだなと思った。
でも自分は宙を舞うフリスビーより少し先にある女性のお尻を追ってしまうような恥じらいのない犬が好きだ。